復興ログ

未来の被災地にいるアナタと数十年後のキミたちへ。すべての記録を残します。

過熱するストリーミング音楽配信サービス

iOS8.4が配信され、Apple Musicの利用が可能になりました。

音楽ストリーミング配信の大本命とも言えるApple Musicは無料トライアルの受付中のようです。

 

ストリーミング配信になるのでWi-Fiへの接続環境がなければ、使いづらいなぁ。

 

 

七夕飾りづくりのワークショップ

川開きの「七夕飾りのワークショップ」が開催されています。

詳しくは以下を、参照ください。

第一回目のワークショップに参加してきました。

七夕飾りに使うお花づくりです。花を作って、それを竹のかごに結びつけます。全て手順はていねいに教えてもらえますよ!

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いろいろな方がいて、楽しかったです。

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竹で出来たかごに結びつけていきます。針金を後ろに通して、くるっとすればOK!

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角をまるーく切ることでこんなアレンジも素敵ですね!

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今年のあいとぴあ通りには、みんなで作った七夕飾りがお祭を彩ることになります。

ぜひ、お時間があるかたは、ワークショップへ参加してみてください!

 

NHKでも紹介されました!手がわたくしですよ!!

遊学の旅 〜名古屋編〜

 名古屋を訪問しました。日本の三大都市圏といえば、東京圏、大阪圏、名古屋圏ですが、名古屋にはなかなか行く機会がないと思い、はじめて行きました。

東京と大阪に続く都市圏域だから大きいな街だよねというイメージだったのですが、割りと静かな印象を受けました。

こんな話を聞いたことがありました。メモ。

どこの田舎にも?都会に対するコンプレックスってきっとあるんじゃないかなと思うんです。石巻の場合は仙台に。もしくは東京に。

それが実感できたわけではありませんが、大阪へも東京へもアクセスしやすいですよね。

 

ということで、名古屋といえば、

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名古屋城

 

 

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この石垣なのですが、上部が外側に反りだすいわゆる「扇勾配」になっており、石の重みや圧力が、たくみに分散されるため、はらみにくく美しく見えるのだそう。

天守台の石垣は「加藤清正」が作り、この作りは清正が得意とした作りなのだそうです。

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 こちらが加藤清正。

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 名古屋城といえば「金鯱」ですよね。

 

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 天守閣からは駅の方面のトヨタ名古屋オフィスも。

 

 大須商店街

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 近年、再開発を頑張っているのが、この大須商店街なのだそうです。

確かに、街の中を若い人が行き来していてたし、街並みの新しさとともに、商店街の古いお店のバランスがとてもよい形で共存しているように見えました。

 

今度は、ゆっくり、名古屋をまわってみたいと思いました。

 

川開きの七夕飾り復活へ ワークショップもあるよ!

梅雨入りはまだなのか?まだ、肌寒かったりする石巻です。

先日、川開きの七夕飾り復活のニュースがございました。

商店街の店主らが毎年、自主的に製作していたが、震災で多くの店が被災したため設置を見合わせていた。石巻2・0は七夕飾りの復活を通し、市民らにまちへの関心や愛着を呼び起こしたいという。新しい形で七夕飾りを未来へつなぐ試みでもある。
 当日はアイトピア通り(約250メートル)の沿道に二十数本の竹を設置し、約60個の七夕飾りをつるす。飾りは誰でも参加できるワークショップで製作する。出張ワークショップを市内の学校や仮設住宅などのほか、東京でも開く予定。

 

既に、ワークショップの案内も出ていますよ!

 

七夕飾りづくりワークショップ

毎週金曜日開催

  • 6.19(金) 18:00-20:00
  • 6.26(金) 18:00-20:00
  • 7.03(金) 18:00-20:00
  • 7.10(金) 18:00-20:00
  • 7.17(金) 18:00-20:00

場所 IRORI石巻(石巻市中央2-10-2新田屋ビル1階)

対象 小さいお子様からおじいちゃんからおばあちゃんまで誰でも参加できます。

問い合わせ:0225-25-4953(予約歓迎)

主催 石巻STAND UP WEEK2015実行委員会

事務局 一般社団法人ISHINOMAKI2.0

 

 

 

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去年の夏。川開きが終わった直後に抱いた寂しさを、地域が新たな形で再生させることになりました。

いかに継続するか、それが重要だと思います。

いったん、落としたバトンには落とした理由があり、それを解消する新たな仕組みが必要になります。仕組みは時代に合わせてアップデートすれば良いのですが、アップデートするにはその時代の理解と未来をつくる想像力が必要になります。

新たな手法を確立し、次の世代に継続して残せる仕組みにするためにも、今回、ワークショップ形式を取り込んだのだと思います。

ぜひ、ワークショップに参加してみてください!

【参考リンク】

おかえり仙石線

震災から4年2ヶ月を経てようやく、待ちに待った仙石線が全線開通しました。いつになったら使えるようになるのだろうかと思った4年前。ようやく、復活です。

記念式典

村井嘉浩宮城県知事は「全線再開と仙石東北ラインは地域発展を引っ張る大きな力になる」と復興の加速に期待した。

 

街の人達の復活への思い

 「来た!」。野蒜駅に列車が滑り込むと、集まった住民らから歓声が上がった。東松島市の主婦、木村茂子さん(63)は「電車とバスの乗り継ぎは不便だったので、うれしい」と顔をほころばせた。

 

石巻市不動町の看護師、佐藤和子さん(70)は「自宅も浸水したあの時、4年あまりで元に戻るなんて想像もできなかった。切れていたものがつながって、心もつながったようです」と晴れやかな表情で仙台行きの列車に乗り込んだ。

 

 震災発生時、仙石線に乗っていて当時の野蒜駅付近で被災した野蒜小6年の石井優大(ゆうだい)君(11)は「野蒜に列車がまた走るようになったことが懐かしくて、とてもうれしい」と笑顔をみせた。

 

東京の得意先回りを終え、帰社途中だった石巻市の水産加工会社「ヤマサコウショウ」部長の阿部義美さん(66)は周囲を見て運転士に伝えた。「移動中に津波が来るかもしれない。高台のここが一番安全だ」。阿部さんは元消防団員で土地勘があった。運転士は再度指令室の指示を仰ごうとしたが無線がつながらない。意見を受け入れて車両に残ることを決めた。

 

JR仙石線が4年2カ月ぶりに全線で運行再開した30日、沿線自治体の住民、関係者からは喜びの声があふれた。被災地間の希望をつなぐ鉄路の復活。「待ってたよ」。利用者のさまざまな思いを乗せ、仙石線が再出発した。

復活したが、課題も

 仙石線の1日平均通過人員は、震災前の10年度で2万1450人。全線再開前の13年度でも1万6893人に上り、東北の在来線では東北線(白石-仙台間)、仙山線(仙台-愛子間)に次ぐ需要がある。
 仙石線に加え、特別快速と快速限定の仙石東北ラインが開業した。利便性が向上し、JR東日本は「震災前の利用者数は回復させたい」と意気込む。
 高台に移設した東松島市の東名、野蒜両駅の周辺では、新たな住宅地の整備が進む。16年3月には石巻市蛇田地区近くに新駅「石巻あゆみ野」が設置され、鉄路を核とした復興まちづくりが始まる。
 鉄路復活は一つの大きな節目だが、被災地には「仙台圏への人口流出に歯止めをかけなければ意味がない」との危機感が強い。住環境の整備はもちろん、交流人口の増加や雇用の創出といった地域挙げての取り組みが不可欠だ。

 

映像

 

 

 

 

 

 

復活にあたり

 東日本旅客鉄道(JR東日本)は仙石線の復旧費用を公表していないが、高城町―陸前小野の復旧費については12年時点で約100億円強と見積もっていた。

仙石東北ライン

仙台から新ルートの仙石東北ラインに乗ってみました。

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仙台駅発の仙石東北ラインは2番線ですよ!

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スマホを片手に写真を撮る人が多数いました。

上記記事によると仙石東北ラインは新鋭車両で走行されています。

東北本線と仙石線は、電化方式がそれぞれ交流2万V・直流1500Vと異なるため、JR東日本は両方を直通できる車両としてディーゼル発電機と蓄電池によって走行する「ディーゼルハイブリッドシステム」を搭載した新鋭車両、HB-E210系を導入。

電化方式が異なるために、東北本線の塩釜駅と仙石線の高城町駅の間を架線がない接続線を使って、乗り入れるのですが、その接続線を走れるのがディーゼルハイブリッドということなのだそうです。そして、更に同区間で乗り入れるのには以下のような理由があるようです。

JR東日本東北工事事務所によると、接続線を設ける場所として同区間が選ばれたのは、両線が最も接近する場所であるのはもちろんのこと、石巻に近いことも理由だ。両線が接近する区間は他にもあるが、仙石東北ラインの運転は石巻─仙台間の時間短縮を主眼としているため、駅間が長く列車のスピードが速い東北本線に、石巻側からなるべく早く乗り入れ可能な場所が選ばれたという。

つまり、仙台に近づけば近づくほど、駅が密集する仙石線の路線よりも、駅と駅の間が長い東北本線に早めに乗り入れて、石巻ー仙台間の時間短縮を目的としたためのようなのです。仙石東北ラインの開業が発表されたタイミングで、なぜ、わざわざ乗り入れるのか?疑問に思っていましたが、時間短縮の実現をするために、最新車両を投入したようです。仙石線ユーザには、なかなか見慣れなかった、東北本線沿いの駅を通過することになります。

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高城町の表記はこの通り。

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高城町を過ぎると、今までと変わらない田園風景が広がります。

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海沿いでは今までと変わらない海の様子が広がるものの、防波堤が大きく出来上がっていました。

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野蒜駅に近づくにつれて、震災前とは変わった風景が広がります。

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復活した野蒜駅。メディアや新しい駅を訪れる人であふれていました。

 

インフラがなくなって気がつくこと

「あたりまえ」の「ありがたさ」を感じずにはいられません。なくなってみてあらためて気がつく、今の環境のありがたさ。仙石線の復活により、ようやくモノや情報の行き来が短縮された気がします。あたりまえにある、ありがたさを忘れずに、これからの生活に感謝しながら電車に乗りたいですね!

2015年6月 復興支援メモ

東京

経済的で効率的な仕組みが出来上がっている。
日本中から人が集まることにより、多様な価値観が入り乱れている。その価値観が故に、東京を形成する大きな枠組は「資本」になり、資本が基本的な共通価値を示すものさしになりがち。
 
この資本スケール(ものさし)に浸りながらビジネスは行われるわけだが、それだけでは動かない心情心理が世の中には存在している。
その心情心理が、東京にいては見えにくい世界になる。

日本の課題を背負った被災地

東日本大震災により、被災地では日本の地方都市が抱えていた課題が顕在化したと言われている。
人口流出、コミュニティーの崩壊、地域経済の衰退。被災地は日本の地方が抱える課題を他の地域よりも10年も20年も先に経験することになったと言われた。
しかし、4年が経過したいま。復興により生まれた新たな課題も存在しているように思えてくる。
この4年間の支援により、街が、自立性、自発性、主体性を失いかけたこと。アイデンティティーを見失いかけていること。新規構想による、過去の置き去り。4年以上前を置き去りにする傾向が強まった見方ができる。これは東北固有・地域固有の課題に発展しつつあるように感じる。
 
被災地域が日本の別の地方と異なることは、復興支援の手が入っていること。
 
過去に自信を持ち、この街に生まれたことをもっと誇らねばならない。
先代から受け継いだ景色や風景、文化、伝統を今だからこそ、見直すことが重要である。その上で、この街を支え、新たな文化を作り、地域を作るのは自分たちであるという当事者意識が求められる。

見直すべき価値

我々が今、切り拓こうとしていることは被災地が被災地以前から歩んできた歴史からすれば、ほんの一部であり、過去の文化の延長であるということを、もっと深く理解しなければならない。その街の個性を形作ってきたのは何十年も、その土地で生きてきた人々である、というもっとも重要な価値。4年でその価値を変えることはなかなか難しい。また、変えることが正しいとも限らない。
過去の文化やコミュニティーを見直すことにより、新たな価値を無理のない形で作り、次の世代へ伝えていく必要がある。

4年という時間

震災から1500日が経過し、震災直後に発足したシステムは「踊り場」に差し掛かっていると言って良い。発足当初の志を見つめなおし、現状に照らし合わせ、あらためてアップデートする必要がある。
自己実現に行き着くようであれば、その仕組みや理念を見直し、アップデートする必要があるだろう。誰のための何の仕組みであるのか?対象者の現状を理解し、持続可能な仕組みに作り上げることが必要なフェーズである。 

街が戻るということ

震災前の街の状態を知る人からは「震災前に戻った」という声が聞かれるようになった。右肩下がりのダメだった震災前の街に戻った。震災前に戻った街をどのようにとらえるか。
震災直後の初動のような(内外問わず)動きが期待できない今となっては、地域の内発的な発展でしか、本質的な復興は成し得ることができない。地域の心情理解が求められるため「元あった街を、元いた人間の手で発展させられるか?」ということが重要になる。
元あった街は日本に一箇所しか存在していない。その街を戻せるのは、唯一その街の人達であるということになる。
つまり「住民主体による街づくり」ということになる。それには「時間」が必要となり、そのためには大きな「覚悟」が伴う。
街とともに一生、生きていけるか?その覚悟を抱いて動かなければ、物事は前進しない時期となってきた。
一生、生きていくということは、自分自身に責任を持つということになり、自分の行動に自分でリスクを追うことにもなる。
全ての行動に責任を持って、それに伴う全リスクを背負う覚悟があるか?
東京へヒト・カネ・モノが一極集中する今の日本で、強い地域愛によるアイデンティティーと覚悟を持てるか?
これが、地域をおもしろい場所へと変える力になるのではないだろうか?
震災が発生してから4年で被災地は多くの課題を突きつけられたが、裏を返せば、それは東京の課題であるということが見えてきた。
 
地方の課題は東京の課題
 
この街を行く人に聞いてください。
「あなたはなぜここにいるのですか?」と。
そしたら、こう応えます。
「ここしかないから」と。
 
「ここしかない」それは大きな覚悟です。気づいていないかもしれませんが、それはとても大きな覚悟で、決して悲観するものではありません。
東京の課題の裏側にいることは、東京では出来ないことがやれるということなのです。
 
以上。

石巻市立町1丁目4・5番地区 再開発事業白紙に

街中の再開発の大きなニュースがあったので残しておきます。

地権者でも住民でも、職場がある人間でもありませんが、時間をかけて練り上げてきた、再開発のキー事業が頓挫するというニュースは石巻のこれからの未来に大きな影響があると思い、記録にしておきたいと思います。

以下、引用です。

宮城県石巻市の中心市街地で計画されていた立町1丁目4.5番地区(地権者22人)の再開発事業が白紙に戻ることが21日、分かった。準備組合は27日に総会を開き、解散する見通し。

27日の総会をもって、準備組合が解散するようなのです。

 事業着手には地権者全員の同意が必要だったが、採算性や資金繰りの面で一部の地権者から異論が出ていた。協議を続けたものの溝は埋まらず、今月中旬の準備組合の理事懇談会で計画の断念を決めた。
 同意しなかった商店主は「石巻はもともとシャッター街。補助金があるからと飛びつくのではなく、足元を見て個々の店が努力していくべきだ」と話す。
 準備組合の今村義雄理事長は「このような結果になって残念。震災で壊滅的な被害を受けた中心市街地をこのままにしておけない。別の形でにぎわいを取り戻す方策を考えたい」と話した。

おっしゃるとおり、イーリス立町はシャッター商店街だったんだけど、なぜ、シャッター商店街になったのか。足元をもっと知りたいと思いました。