草莽崛起と留魂録より
吉田松陰にはまっている私ですが「草莽崛起」という言葉をご存知でしょうか?
草莽崛起(そうもうくっき)とは?
「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指す。“在野の人よ、立ち上がれ”の意。
安政の大獄で収監される直前(安政6年(1859年)4月7日)、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。
吉田松陰 WIkiepdiaより
これでもよくわからんので、
こちらに詳しい解説がありました。以下、引用文です。
「草莽崛起」とは「在野の人よ、立ち上がれ」という意味の言葉で、列強の外圧に晒された幕末の日本人に対し松陰が発した強烈な檄であり、メッセージであった。
「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし」(今の幕府も諸侯も、もはや酔っぱらい同然だから救いようがない。 在野の人が立ち上がることを望む以外に頼みはない)
在野とは公職に就かず、民間の人間のことを指すのですが、国や県もだめだから、民間の人々よ立ち上がろうではないかということを言っているのだそうです。熱い思いがこもった思想です。吉田松陰が安政の大獄で収監される直前の言葉とのこと。
留魂録
吉田松陰の遺書です。
しかし、自身が萩の野山獄に投獄された経緯から、松陰は、老中暗殺計画を自ら自白するという挙に出たため、一転して嫌疑は重罪に変わり、小伝馬町に投獄される。その後の取調べで、自身の処刑を察知した松陰が、10月25日から26日にかけて書き上げたのが、本書である。
処刑の前に松下村塾の弟子たちへ書き上げた遺書。そこには、このように書かれています。
幕末維新・写真紀行ブログ 留魂録 全文 現代語訳より以下、引用。
【第八章】
今日、私が死を覚悟して平穏な心境でいられるのは、春夏秋冬の四季の循環について悟るところあるからである。つまり、農事では春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れる。未だかって、この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるのを私は聞いたことがない。私は現在三十歳。いまだ事を成就させることなく死のうとしている。農事に例えれば未だ実らず収穫せぬままに似ているから、そういう意味では生を惜しむべきなのかもしれない。だが、私自身についていえば、私なりの花が咲き実りを迎えたときなのだと思う。そう考えると必ずしも悲しむことではない。なぜなら、人の寿命はそれぞれ違い定まりがない。農事は四季を巡って営まれるが、人の寿命はそのようなものではないのだ。
しかしながら、人にはそれぞれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。十歳にして死ぬものには十歳の中に自ずからの四季がある。二十歳には二十歳の四季が、三十歳には三十歳の四季がある。五十歳には五十歳の、百歳には百歳の四季がある。十歳をもって短いというのは、夏蝉(せみ)のはかなき命を長寿の霊木の如く命を長らせようと願うのに等しい。百歳をもって長いというのも長寿の霊椿を蝉の如く短命にしようとするようなことで、いずれも天寿に達することにはならない。
私は三十歳、四季はすでに備わっており、私なりの花を咲かせ実をつけているはずである。それが単なる籾殻(もみがら)なのか、成熟した栗の実なのかは私の知るところではない。もし同志の諸君の中に、私がささやかながら尽くした志に思いを馳せ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それは即ち種子が絶えずに穀物が毎年実るのと同じで、何ら恥ずべきことではない。同志諸君よ、この辺りのことをよく考えて欲しい。
松蔭先生。すごい。