本能寺の変
錦絵 本能寺焼討之図 - Wikipedia より引用
大河ドラマで「本能寺の変」が放送されるので、Wikipediaでお勉強してみました。
右側が「織田信長」
左側には「森蘭丸」
真ん中は誰だろう・・?「明智光秀」でしょうか?
以下、全部Wikipediaより。
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(ユリウス暦では1582年6月21日、現在のグレゴリオ暦に換算すると1582年7月1日[1])、織田信長の家臣明智光秀が謀反を起こし、京都・本能寺に宿泊していた主君信長を襲い、自刃させたクーデター事件。暗殺事件との解釈もなされる。
当時、天下人の地位に最も近かった織田信長を、有力家臣の一人であった明智光秀が亡き者にするという日本史上においても最重要事件の一つである。しかし、光秀が反旗を翻した原因については定かではなく、多くの歴史家が研究しているが、現在でも定説と呼ばれるものは確立されていない。光秀の恨みや野望に端を発するという説、光秀以外の首謀者(黒幕)がいたとする説も多数あり、日本史上の大きな謎のひとつとなっている(各説については変の要因を参照)。
中学校の歴史の教科書で習いますよね。(あれ小学校かな・・?)織田信長が家臣の明智光秀のクーデターにあう、という日本史の歴史的事件!
織田信長が登場する大河ドラマでは、一つの山として扱われています。
天地人以来になるので、2年ぶりの本能寺です。
情勢
安土城を本拠に、柴田勝家・明智光秀・滝川一益・羽柴秀吉・織田信孝などの派遣軍と軍団長を指揮して天下統一を進める信長は数えで49歳であり、このまま順調に進めば天下は信長のものになると思われる情勢であった。その一方で、多くの兵力を派遣していたため信長周辺の軍勢は手薄であり、武田氏滅亡後は天下統一目前という楽観的な雰囲気で、畿内では信長、徳川家康とも小勢で移動していた[2]。そこを織田軍の近畿管区隊というべき明智光秀の軍が襲撃したのである。
天下統一間近だった信長の周囲は手薄だったのですね。
経緯
- 明智光秀は、武田征伐から帰還したのち、長年、武田氏との戦いで労のあった徳川家康の接待役を5月15日より務めた。
- しかしながら、17日に光秀は接待役を途中解任されて居城・坂本城に帰され、羽柴秀吉援護の出陣を命ぜられた。解任の理由は、15日に秀吉から応援の要請が届いたためである。
- 26日には別の居城丹波亀山城に移り、出陣の準備を進めた。
- 愛宕権現に参篭し、28日・29日に「時は今 天が下知る 五月哉」の発句で知られる連歌の会を催した。
- 一方、信長は29日に秀吉の援軍に自ら出陣するため小姓を中心とする僅かの供回りを連れ安土城を発つ。同日、京・本能寺に入り、ここで軍勢の集結を待った。
- 翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いている。信長は安土で朝廷よりの任官要請(関白、征夷大将軍、太政大臣)をいずれも拒否しており朝廷は不安に満ちていた。つまり巨大な武力を持つ朝廷の家臣でもない者がこの時入洛してきたのである。
- 同じ6月1日の夕、光秀は1万3,000人の手勢を率いて丹波亀山城を出陣し京に向かった[5]。
- 翌2日未明、桂川を渡ったところで「敵は本能寺にあり」と宣言したという
- 6月2日早朝(4時ごろとする説あり)、明智軍[6]は本能寺を完全に包囲した。
- 馬の嘶きや物音に目覚めた信長が蘭丸(乱丸)に訪ね様子をうかがわせた。小姓衆は最初下々の者の喧嘩だと思っていた。だが「本能寺はすでに敵勢に包囲されており多くの旗が見えていた。紋は桔梗(明智光秀の家紋)である」と蘭丸(乱丸)に報告され、光秀が謀反に及んだと知る。信長は「是非に及ばず」[7]と言い、弓を持ち表で戦ったが、弦が切れたので次に槍を取り敵を突き伏せた。しかし殺到する兵から槍傷を受けたため、それ以上の防戦を断念。女衆に逃げるよう指示して奥に篭り、信長は小姓・森蘭丸に火を放たせ、自刃したと言われる[8]。信長の遺骸は発見されなかった。
変の要因
江戸時代を通じて、信長からの度重なる理不尽な行為が原因とする「怨恨説」が創作を通じて流布しており、明治以降の歴史学界でも俗書や講談など根拠のない史料に基づいた学術研究が行われ、「怨恨説」の域を出ることはなかった。
こうした理解は、映画やドラマなどでも多く採り入れられてきたため、「怨恨説」に基づいた理解が一般化していた。司馬遼太郎『国盗り物語』でも、この説に拠っている。しかし、戦後は実証史学に基づく研究がすすんできた。その先鞭をつけたのが高柳光寿(野望説)と桑田忠親(怨恨説)であり、両氏はこれまで「怨恨説」の原因とされてきた俗書を否定し、良質な一次史料の考証に基づき議論を戦わせた。
現在ではさまざまな学説が唱えられており、光秀の挙兵の動機として怨恨(江戸時代までの怨恨説とは異なる根拠に基づく)、天下取りの野望、朝廷守護のためなど数多くの説があり、意見の一致をみていない。また、クーデターや、信長による古くからの日本社会を変革させる急進的な動き(腐敗した仏教勢力への粛清など)への反動(反革命)とする説も多い。
本能寺の変後の諸将の動向
歴史はどう動いたのか?
明智光秀
光秀は、6月3日、4日を諸将の誘降に費やした後、6月5日安土城に入った。9日、上洛し朝廷工作を開始するが、秀吉の大返しの報を受けて山崎に出陣。13日の山崎の戦いに敗れ、同日深夜、小栗栖(京都市伏見区)で土民に討たれた。安土と京都で政務を執ったのが4、5日から12日であったため、三日天下と呼ばれた。
期待していた親類の細川幽斎、与力の筒井順慶ら近畿の有力大名の支持を得られなかったことが戦力不足につながり、敗因の一つであったと言える。
羽柴秀吉
秀吉は清水宗治の篭る備中高松城を包囲して毛利氏と対陣していた。
早くも6月3日には信長横死の報を受け、急遽毛利との和平を取りまとめた。6日に毛利軍が引き払ったのを見て軍を帰し、12日には摂津まで進んだ。ここで摂津の武将中川清秀・高山右近・池田恒興を味方につけ、さらに四国出兵のため堺にいた織田信孝・丹羽長秀と合流した。これらの諸軍勢を率いて京都に向かい、13日の山崎の戦い(天王山の戦い)で光秀を破った。この非常に短い期間での中国からの移動を中国大返しと呼ぶ。
織田政権内での主導権をもくろむ秀吉は、さらに清洲会議にて信忠の子・三法師(織田秀信)の後見となり、事実上の信長の後継者としての地位を確立する。