復興ログ

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江戸時代の石巻の英雄 川村孫兵衛

石巻で一番大きい夏祭りの川開き祭りは、石巻の礎を築いた、川村孫兵衛の偉業をたたえ海難事故や水難事故によって亡くなった英霊を供養するために行われている祭りです。今もなお、石巻に名を残す川村孫兵衛ですが、いったい何をしたのか?調べてみました。

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▲工事を指揮する川村孫兵衛(河南地区、八雲神社蔵)

川村孫兵衛重吉

長門国阿武郡(現在の萩)の出身で、毛利輝元に仕えたが、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで毛利氏が大幅に減封された際に浪人となった。その当時伊達領であった近江国蒲生郡滞在中、在京していた伊達政宗にその才能を見出されて、慶長6年(1601年)に、その家臣となる。

元和2年(1616年)から寛永3年(1626年)に至り北上川の治水工事を行なって、仙台藩の石高を大きく向上させた。また、これによって陸奥北部との海運も発達した。

子孫は代々門脇村釜に住した。

川村重吉 - Wikipediaより引用

伊達政宗の家臣となった孫兵衛は仙台藩財政の乏しさを、自身の借金で補いながら工事を指揮し、作業をする人々と一緒に寝食を共にして作業にあたったのだそうです。

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▲日和山公園の川村孫兵衛の像

北上川の流路と改修工事

伊達政宗の命で北上川の治水を言い渡された川村孫兵衛ですが、どんな工事をしたのでしょうか?北上川は川村孫兵衛の工事の以前にも、治水の工事が行われています。

真っ先に手を付けたのは登米寺池の領主、伊達相模守宗直でした。

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▲「石巻市の歴史」より引用。赤字部分は追記したもの。

伊達宗直は登米の新田開発の必要性から慶長10年~15年(1605~1610)にかけて北上川を川面付近で遮断し、米谷へ湾曲させることによって(①部分)、森と吉田の流路はなくなり、かつての北上川流域は新田として開発されます。

登米の新田開発の必要性から慶長10年~15年(1605~1610)にかけて北上川を川面付近で遮断し、米谷へ湾曲させることによって、森と吉田の流路はなくなり、かつての北上川流域は新田として開発されます。

その後、北上川の急流を緩和するために迫川へのバイパス工事を行い(②の部分)、北上川工事のバトンを川村孫兵衛へ渡すことになります。

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▲「石巻市の歴史」より引用。赤字部分は追記したもの。

元和9年(1623)には、藩命を受けた川村孫兵衛が、柳津-飯野川間の遮断、北上川・迫川・江合川の流路を和渕で合流、水害防止、かんがい用水の確保などの改修工事を行いました。

川村孫兵衛の河川改修は

  1. 柳津と飯野川との間の流れを止めること
  2. 江合川と迫川を合流させること
  3. 北上川、迫川、江合川の流路を整理統合して真野川に合流させる

これにより、上流の盛岡からの舟運が可能となり、新田開発も盛んに行われるようになった。河口の石巻は藩米の集荷地となり、石巻の湊、門脇、住吉に藩倉が建てられた。こうして石巻は、仙台藩江戸廻米の基地として藩経済の中心となった。

今の北上川河口の風景は川村孫兵衛が作ったものなのですね。このあと、明治政府によって、さらなる北上川の改修工事が行われ、今の形となりました。

晩年、川村孫兵衛は釜に住んだとされています。川村孫兵衛の菩提寺の普誓寺は東日本大震災の大きな影響を受けています。

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川村孫兵衛の偉業のお陰で、米の一大集積地となった石巻。伊達政宗が石巻を治めることがなければ、孫兵衛も石巻には来ることもなく、その才能も発揮することもなかったのかもしれません。北上川の大改修が行わなければ、港町としての繁栄もなかったのだろうと思うと、全てはつながっているように感じます。

過去の偉人に感謝し、授けられた風景を大切にしたいものですね。

 

 

引用文献・サイト